飲み物に一滴落とすだけでほどよい気分をもたらしてくれるという秘密のフレーバー。
瓶も可愛らしいデザインになっており、開発をした企業は高まる需要に応えるように供給量を増やしていった。
しかし人気となった途端、そのフレーバーには麻酔作用を持つ物質が含まれていると指摘される。
商品はすぐに回収された。
市場に出回らなくなったそれは後に裏市場に顔を出すこととなる。
生産・販売の中止を余儀なくされたフレーバーは闇のルートに乗り、今では裏社会に蔓延る形となった。
闇に隠されたフレーバーにネオンは興味を持った。
次に行われるのは小さなオークションだが、大量生産されていた商品であったため入手しやすいものだと話題になっていたようだった。
父を介さず直接話を持ち出したのはそのせいだろう。
巨額の金を必要としないのならば、頼みやすい人物に話をすればいい。
そこでネオンは自分の部屋に彼を呼びつけたのだった。
「お嬢様、しかし競るのであればいくらかの額は必要になるかと思います。私個人ではどうしようもありません」
「お金の心配ならいらないよ。あたし、こう見えてもお金を全部パパに預けてるわけじゃないから」
「とは言いましても…お父上のご意見も聞かずに勝手な行動をするのはいただけません。私も立場上賛同しかねます」
丁寧かつ堅苦しい物言いで彼は目の前にいる可愛らしい少女───雇い主に反論した。
荒れ果てた屋敷、失われた力、自暴自棄になる父、その裏で利己主義に走る娘───
全てが正常に動いてはいなかった。
たとえ持ち直せなくともこれ以上崩れることがないよう、彼は終始一貫ノストラードの仕事を代わりにこなしてきた。
組を助けるというよりは自分の居場所をなくさないために。
しかし娘は意思を曲げるつもりは全くなかった。
ごそごそと引き出しから分厚い封筒を出すと隠すように彼の懐へ押し込む。
「お嬢様!」
「ダメ。これは命令なの。これだけあればあんな安物簡単に競り落とせるよ。あなたならパパに何も聞かれずに外へ出られる。でもあたしはそうはいかない。ここに閉じ込められてるようなものなの。嘘をついて出たくても結局護衛がついて自由にならないし、オークションはダメって言われちゃう」
娘の言うとおり、彼女は未だ外出を一人でさせてもらえないという不自由な生活を強いられている。
他の組に真実を漏らされてしまうと厄介だから、というのが一番の理由らしい。
しかし情報が漏れるかどうかなど時間の問題であり、隠しきることなど到底不可能であることは皆わかっていることだった。
無駄な足掻きだということは彼女自身もわかっているようだった。
もう占いの力は戻ってこない。
ノストラード氏もそれはわかっている。
だがもしかしたらふとした瞬間に力が戻るかもしれない───
そんな幻想に取りつかれた父親は娘の外出を一切禁じた。
それどころか力が戻るよう鍛錬させろとまでクラピカ達に言い放った。
いくらなんでもそれは無茶な言いつけであった。
「手に入れてくれたらあなたを悪いようにはしない。たとえバレたとしてもね」
「ですが…」
「頼めるのはあなただけなの。それにあたしはあの瓶が可愛くて欲しいだけなの。使うつもりなんかない。ね?お願い」
こうしてオークション会場まで彼は足を運ぶこととなった。
大きい会場でなかったため人がごった返していた。
面が割れても困るので軽い変装をしていたためか声を掛けられることはなかった。
彼は無事フレーバーを競り落とし、用を済ませると早々に会場を後にした。
屋敷に戻り彼女の部屋へ向かう。
頼まれていた品と余った金の入った封筒を一緒に渡すと、今回のお給料分と言い封筒だけ突き返された。
「わぁ〜!かっわいいぃぃ〜!!!ありがと〜っ」
しかしすぐに異変は起きた。
ネオンが食事の時間になっても部屋から出てこない。
そう聞いたクラピカはすぐさま彼女の部屋へと向かう。
事が明らかになるのはよくない。
ネオンのためにも、そして自分のためにも。
侍女に適当な理由を言って部屋から離れさせ、クラピカはドアを叩いた。
反応がない。
最悪の事態だけは避けたい。
ドアを力任せに開けようとしたそのとき、がちゃりとドアが開く。
ネオンが虚ろな目で隙間から彼を覗き見た。
クラピカは背筋が冷えるような気分だった。
お嬢様、とクラピカが声を掛ける前に儚い華奢な腕で部屋へ引き込まれた。
咄嗟の出来事にうろたえたクラピカはされるがままに引っ張られ床に叩きつけられた。
そこへネオンが近付きクラピカを見下ろした。
「お嬢様…何のマネですか」
「気分がいいの。なんでもできる気がするんだ。こうしてあなたを閉じ込めることだってできるんだから」
内鍵を掛けたそのキーは部屋の隅にてんこもりに置かれた服の中へと投げつけた。
彼女がフレーバーを試したのは明らかだった。
クラピカのすぐ側に使われたと思われるフレーバーの瓶が落ちていたからだ。
ネオンを見上げると彼女は不敵な笑みを浮かべた。
「…あたしだってこんなこと望んでない」
「……」
「あたしだって占いができる頃に戻りたいよ。たとえパパに利用されてるんだってわかってても…。銀河の祖母のおかげであたしは占いの世界を知った。それでいろんな人とも出会えた。それなのにあたしはもう占うことができないの」
「…お気持ちはわかります」
「わかるはずないよ!ずっとできると思っていたものがある日突然なくなっちゃうんだから!こんな気持ちがあなたなんかにわからない!!」
「…同じ気持ちではないかもしれませんが、私も使えると思っていたものがあるときを境に使いにくくなったことがあります」
束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)。
もう既に彼らに知れ渡ってしまった。
今は団長ことクロロが除念を終えていないが故に幻影旅団は襲っては来ないものの───
戻ってくれば必ず報復を受ける。
奴らの仲間を既に二人も殺しているのだから。
リスクを知られた上でこの念がどこまで通用するのか、もう役に立たないかもしれない。
他の方法を考えるのも悪くはないかもしれない。
しかし確実に言えるのは生き残れる確率をかなり下げたということだ。
そういう意味ではクラピカも力を失ったも同然か。
「お嬢様、辛いときは叫んでも泣いてもいいのです。それを私が止める権限はありません。ですが力はおそらく戻ってこないでしょう。諦めるしかありません」
「そうよね…気合いでどうにかなることならとっくに占いはできるはずだもん。それが戻らないんだからやっぱり諦めるしかないんだよね」
ネオンは突然笑い出す。
「もういい。パパはあんなだし、家の中はぐちゃぐちゃだし…全部夢だったらいいのに。あなた達も早くここから出た方がいいんじゃない?こんな所にいても未来なんかないよ」
「…お嬢様、落ち着いて下さい」
「…あなた、なんて名前だっけ?まぁいーや。いっつもあなたは静かで暗い顔してるわよね。試してみる?気分がよくなるよ」
ネオンは床に落ちていた瓶を拾うとテーブルに置かれたティーカップに一滴垂らした。
無職透明のそれは甘い香りを漂わせて紅茶の中へ沈む。
ティースプーンで軽くかき混ぜるとハイと言ってクラピカに渡してきた。
「大丈夫よ、死ぬわけじゃないし。あっ、これあたしが飲んだ紅茶じゃないから安心して」
「おやめ下さい」
「つまらないことばかりしていたってその眉間の皺が深く刻まれるだけなのに。我慢なんてしなくていいよ。ほら〜飲んでよー」
「…やめろと言ってるだろう」
水を打ったように部屋は一瞬にしてシンとした。
ネオンは驚きの表情を隠せずにいる。
目の前にはいつも鬱めいた表情だった傭人ではなく、怒りを露わにしたハンターがいた。
クラピカはその紅茶を手で払いのけて床に落とした。
中身の零れたティーカップは床に叩きつけられると見るも無残に粉々に砕け散った。
床に褐色の染みがじわじわと広がっていく。
その甘い香りを漂わせながら。
「こんなものに頼ってはいけない。ただの現実逃避にしかならないのだから…捨てましょう」
「で…でも」
「全てを失ったというにはまだ早いです。私がここで務めているのもチャンスを待っているからなのです。占いができないからって自暴自棄にならないで下さい…まだ、大丈夫ですから」
「…結局気休めしか言えないんだね」
「無礼をお許し下さい…申し訳ありませんでした」
クラピカはすぐに食器を片付け破片を始末した。
瓶はクラピカが預かることにした。
ネオンはその様子をぼうっと見ていた。
特に何かを言うわけでもなく───
もしかしたらフレーバーのせいで意識が朦朧としているのかもしれない。
ちょうどそのときドアを叩く音が聞こえたので、開けようとしたがネオンがキーを山積みの服の中へ投げてしまったので開けることができない。
どうしようか悩んでいるとドアの向こうからじゃらじゃらと金属の擦れる音がした。
誰かがマスターキーを持ってきたのだろう。
簡単にそのドアは開けられた。
先頭切って入ってきたのはセンリツだった。
「ちょっと…!大丈夫なの?来ないから心配していたのよ?!」
「すまないセンリツ。だが問題はない…お嬢様は酷く眠いらしい。寝かせてあげてもらえないだろうか」
それはいいけど…とセンリツは何か言いたげな様子であったが、先ほど起きたことを説明するわけにもいかないのでクラピカは先に部屋を出ることにした。
「クラピカ…あなた隠してることがあるわね」
「…やはりなんでもお見通しなんだな」
「私じゃなくたって変に思うわよ。バショウなんてあなたがお嬢様と密会してたってびっくりしてたのよ」
「本当か?…確かにあの状況ではそう疑われても仕方あるまい。そうだな…これはボスには内密にして欲しいのだが」
経緯を話すとセンリツはひどく狼狽していた。
「あなた…そんなことしたの?せっかく信用を得たっていうのに危ないことして。あなたまで外出禁止…いえ、解雇されてもおかしくない行為だわ」
「そうだな。私も危険なことをしたと思っているよ。だがこれは」
懐から出したのはネオンの部屋で回収した例のフレーバーの瓶だった。
センリツが瓶を見つめる中、クラピカはくすりと笑った。
「瓶は確かに本物だが中身はお嬢様に渡す前に酒と入れ替えたのだ。いくら傭人とはいえ麻薬と同等のものを献上するわけにもいくまい」
「え?じゃあそれって…」
「ただの酒だ。しかし人というのは信じると偽物でも本物と思うらしいな」
だから眠ってしまったのだよ、となんともやるせないような表情でクラピカは窓の外を眺めた。
「事を荒立てたのは詫びるが…お嬢様も退屈であるのには違いない。少し遊ぶことぐらい許されなくては彼女だって生き甲斐がないだろう」
「そうね…でも驚いたわ。あなたはそういうことしないように思えるから。でもその瓶どうするの?」
「捨てるしかないだろう。後で見つかれば面倒事になるからな。結局私は」
優しくなどない───という言葉はバショウの声に掻き消された。
食事の準備が整ったらしい。
傭人は雇用主の者が食事を終えてから食事をすることになっている。
クラピカはバショウについに恋でもしたかとしつこく聞かれたが、それはないと早々にあしらい食堂へ向かった。
「(独りよがりだと言われても構わないだろう。自分を可愛く思わなければ生きていけないときもあるのだよ…)」